神社参拝はやっぱり「効く」のだと思う

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ものすごく個人的な話になります。いつも個人的な話が多いですが、いつにも増して個人的な話です。

実は先日、10月に入ったあたりかな…急に悲観的になって厭世観が強まってしまいまして、生きていてもつまらない、つらいことばかり、もう生きていく意味を見いだせない…という状態にまで落ちてしまったんです。

今までは、空を見るだけで「神様、美しい姿を見せてくれてありがとう!あー、生きてるってすばらしい!!」なんて思っている人間だったんです。(その「神」は特定の神ではなく、やおろずの神ですよ)

「地球さん、今日もありがとう!空気を水を光をありがとう…」を素でいくみたいな感じだったんですよ。(もちろん、今でもそういう気持ちはあります)

ですが、この世界で起きることに何も意味はないってことを急に実感して、ただ生き物としての人間である私が存在している意味ももちろんないよなぁ、とロカンタン的な吐き気をもよおし、それなら今死んでも寿命をむかえて死んでも同じじゃないか?だって、意味ないんだもの。

ふと疑問に思ったわけです。あれは本当だろうか?と。あの精神世界でタブーとされているもの、それは本当なのだろうか?自分の命を自分で奪うことは、本当に「悪い」ことなのだろうか?と。

ガイドたちに聞くと、そんなことないんだよ、と返ってきました。肯定もしませんでしたけど。あー、やっぱりそうなんだな…と思いつつ、こんな私でも死んだら家族が悲しむので、彼らよりは1秒でもいいから長く生きなきゃ、あー辛い辛い、って思ってました。

そんな中、香取神宮で神様に「喝」をいただきまして、目が覚めました。そして、ちょっとだけ楽になったんです。

ものすごい閉塞感は未だにあります。柔軟宮グランドクロスが抜けて楽になるかと思いきや、五里霧中アゲインですもの。何が違うかといえば、誰も何も要求してこなくなった点。
んで、「喝」を受けて自分を顧みて気づいたのは、今までは光の感覚しか分かっていなかったってことです。
厳密にいうと、ずっと闇の部分は分かったフリをしていただけでした。頭だけで理解していたのですよね。むしろ、わからなくていいと思ってました。

だけど、とあるきっかけで闇の感覚を知ることができたんです。自分が到底理解できないと切り捨てていた感覚です。だけど、ずっと知りたくて仕方のなかったメンタル。私の元夫がこの世を自分の意志で去るに至った、その気持ち。ようやく知ることができたけれど、不覚にもそれに溺れてしまったのです。

からの、神様からの喝。愛の喝ですよ、本当。

つらいです。あー、こんなにも辛いんだな、こんなにも辛い思いをしている人がたくさんいるんだなぁと、自分の無知と傲慢さに恥じ入りました。
闇を知っても、闇に落ちない強さ。

闇を抱きながら、光の道を選びとる聡明さ。

闇に覆われていても、目の前に光を見いだす純粋さ。

それが私には足りなくて、絶賛ドン底這いつくばり中でございます。。。

「人間として生きる」ことはかくも苦しみに満ちているのだなー。
生は素晴らしいと信じていた私はバカでした。

生が素晴らしいなら、死もまた喜びにあふれていて、それは魂にとっての解放で。

それを、頭でわかったフリしていただけで、その感覚を知ったら、いとも簡単にダウンですよ。

あー、情けない。

でもね、神様って見てるんですね。

私が神(と表現されるもの、高次のエネルギー体とか自分の中の純粋な善意とかハイヤーセルフとか)に意識を払う時間や感謝の心が減ってしまっても。

自分の使命とかするべきことを忘れてしまっても。(これについては、なんと「おみくじ」で諭されましたよ…)

神社に訪れるという行為は、神にとって迷える人に助けを与える機会となったのでしょうね。

神社に行かなかったら、どうなっていただろうか?

カンダタが助けた蜘蛛の、その吐き出す糸ような、ほんの小さな光に助けられた感覚です。

もともと寺社やエネルギースポットは好きで、神社参拝を頻繁に行っていた1年があったのですけど、エネルギー的にもらせん階段を上るような感覚がありました。

神社参拝は、自己研さんとしてもオススメできる行為です。

パワースポットがどうのこうのとか、巷の「パワーをもらう」的な感覚がキライなので、こちらではあまり書いておらず、旅ブログのほうで電波な表現を抑えて「観光スポット」的に書くにとどまっておりました。

だけど、そういった場所を訪れることで救われる人もいるかもしれないので、これからはボチボチ書いていこうかな。

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