「なぜ生きるのか」といった哲学的な答えは、もしかすると科学のなかにあるのかなと思い始めた話。

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発売した当初に購入したまま、暇になったら読もうと思っていた『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』をようやくちゃんと読み始めました。

 

クリストファー・ロイド/アンディ・フォーショー 文藝春秋 2012年09月
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by ヨメレバ

 

辞書のように分厚い本ですが、図鑑のようにワクワクして読めます。

著者が自分の子供のために作った本なので、オールカラーでとても読みやすいです。(英語バージョンがあれば、英語の勉強にいいかもと思う)

 

宇宙がビッグバンで生まれてから、今日にいたるまでの137億年を1日つまり24時間換算するとどうなるか?なんて考えたこともなかったんですけど、この本の見出しに24時間の配分が記されているのです。

今ようやく23時46分48秒まで読み進みました。地球でそのとき何が起こっていたかというと、なんとホモサピエンスが登場するあたりでございますww

まだ有史時代にもたどりついてません。

いろんな生き物が何万年という時間をかけて進化したり、滅んだり、あたらしく生まれたりを繰り返してきたところをずっと読んでました。

 

「菌類たちが○千万年どうのこうの」とか、「この動物が進化するのに数百万年」とか、単位を読んでいると気が遠くなってきます。

人間たちの繁栄なんて、地球の歴史に比べたらほんの1分たらずなわけだ…。考えてみればたしかにそうなんだけど、学校の先生たちのなかで、そういうたとえ話をしてくれる人は、私のまわりにはいなかったから、面白い実感でした。

ほんと、人間って宇宙の塵なんだなぁって実感します。自分が宇宙の塵だと思うと、小さな悩みがアホらしくなってきます。

 

んで、まだ読んでいる途中なので、途中までの感想なのですが。

進化論とか進化の過程、地球の気候変動にともなった生命体の衰退なんかは…どちらかというと「理科」とか「科学」的な分野ですが、奇しくも「科学的」なアプローチに触れていると「哲学的」な答えがシンプルに浮かび上がってくるのかも…と感じたわけです。

「人間とは?」「人はなぜ生きるのか?」「自分の人生の目的とは?」現代人でこれを考えたことのない人ってほとんどいないと思うのです。必死で「生きてきた」今までの人類よりも、安全や快適さが確保され、欲望や自己実現も達成しやすい現代で「過ごす」人ほど、「生きる」意味を考えるのではないか、と思うんです。

なんつーか、やはり平和で安全で快適な世の中にいると(狭義の意味で)、「生きている(サバイバル)」実感ってなかなか持ちにくくないですか?

 

「地球の歴史」をふりかえってみると、ふしぎと「生きる意味」はただ「生きるため」なんだと、至極シンプルなんだなぁと実感します。

生き残るために、生活スタイルを変えたり、長い年月をかけて進化したり。生きる、命をつなぐ、それだけのために。

 

生き物たちはとにかく飢えとの闘いの歴史の末に今があります。

生きるか死ぬか、という極限状態にないのは、生き物にとってはとても快適です。

 

快適さや高度な知能とひきかえに、人間はひどく「生きる」ということを複雑にしてしまっているんだろうなぁと思うんです。

快適さや安心感はもちろん大事。文化的な楽しみも、生きるうえでの喜びです。

だけど根本的なところでの「生きる意味」にはならないんだろうな。

もちろん、いち人間として「狭義」のところでいえば、「生きがい」は何か?も論点になるんだろうけれど。

 

この本の内容とはまた別の話ですけど、

人間が仲間を作りたがるのは、本能的なものなんですってね。小さく弱い立場の哺乳類は、集団で助け合っていかないと生き残れなかったから、仲間から外れることは死を意味していたのです。今でも、集団で身を守っている草食動物も多いですよね。

文明が発達して、人間同士がぴったりと寄り添っていなくても生きていけるようになったけど、どこか独りでいることに不安になるのは、人間の性なのでしょうなぁ。より原始人間的というか。

 

孤独と向き合うことって、老病死に真っ向から対面することなんですよね。

どうしたって、生きる延長上には死があって、致死率100%の世界で死に向かっている=生きているわけだから。

 

言い方は乱暴かもしれないけれど、愛する人がいると、その悩みに正面から向き合わなくてすむんですよね。

自分を愛する者にささげられるから、老いも死も怖くなくなる。

家族を作りたいと思うのは、生き物として当然のことなんだろうなぁ。

家族といたり、家族のために何かをしてると、心が安定しますもんね。嫌なことも多いけどw

そもそも、「不老不死」を目指した生き物がたどり着いた一つのステップが、哺乳類という自分に限りなく近いコピーを作って「命をつなぐ」というかたちなんですもんね。

 

大昔では、「さみしい」とか「みじめだ」という感情も、そういう感情が起こらなかったら、いとも簡単に群れから外れて、捕食されたり餓死したりするから、防衛機能として役立っていたのだろうな。

 

そう、感情は防衛反応に過ぎないのですよね。

7歳までの刷り込みが、感情パターンを決めているだけなので、7歳のときまでに「こういうときは命の危険だ」と脳が判断したシチュエーションのときに、不安感や嫌悪感情が生まれるだけ…。

そして、命の危険というものが格段に減った現代(違う意味で危険も多いけど)には、役立たないものも多いわけです。

人によってその「危険」とみなすものが違ったりするから、「私は平気だけどー?」なんてことが起こったりするし。

 

脳のしくみをちょっとお勉強してみてみると、感情に振り回されるのもムダだなーと再確認できますね。

ふしぎと、自然科学的な文献に触れると、なぜか「心のモヤモヤ」が晴れることが多いです。

 

あと、偉大な発明も、自然に存在する法則を応用しただけにすぎない…という事実ね。

自然へのリスペクトがなきゃできないことですよね。

科学や数学を極めると神の存在を意識せざるを得ない…なんていう人もいますけど、あながち間違いではないのかも。

 

偉大な発明家は自然をリスペクトして発明したのかもしれないけど、それを利用する凡人たちは私も含めて、自然をリスペクトしてないから残念なことになっているケースもありますが…。

どちらかというと、アニミズムが基盤にある日本文化のなかで生きる人にとっては、受け入れやすい考えかとは思うのですけどね。

 

というわけで、今後、科学書とか自然科学に関する文献を読むのにはまりそうな予感です。

普遍的なもの、どこにいても役立つもの、根源的なもの、そういうもので社会貢献できるようになりたい欲が増してゆく…。