「自分は他人とは違う、特別」って思うより「共通項」探しをしたほうが平和的

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ふと。

個人主義と自己特別視がごっちゃになってる人って多いんだろうなぁと、感じます。

私も含めての話です。

 

個人主義っていうのは、「社会(最小単位では家族)」に属さない、属しても価値観や行動の動機をその社会に重きを置かない、ということで、「私はユニークなの!」「私をみとめて!」っていうのとは違うよね。(少なくとも私の認識では)

 

とはいえ。

いつの世もどんな人も、多少の例外はあれど「自分は特別」と思いたいもんです。

だから占いで「自分だけのストーリー」や「キャラ立て」のお墨付きを探しちゃったりするわけです…。

(もう非公開にしましたが、当ブログで人気の記事もそういうカテゴライズ系だったので…そんなん書いちゃってる時点で私も大概なのでした)

 

そもそも、評価は他人にゆだねちゃっているから、「ありのままの自分」を肯定してくれる何かが外側に欲しくなっちゃう。

占い師に依存してなくても、占いに依存している時点で、それは外側の世界(哲学、思想、宗教)に「評価」をあけ渡している状態。

「自分」が読み解いてるから大丈夫?それは嘘。

 

その世界でしか通用しない「共同幻想」(これ、実はお金が一番いい例※)が前提になければ、その理論は通用しないから、自分を是としてくれる「宗教団体」に所属しているのと何が違うのだろう?

うむ、細かい説明は省くけども、違わないんだろう。だから「普通の人」から占いは気味悪がられているのであって。

(※貨幣っていう「共同幻想」がなければ、貨幣はただの紙切れと金属にしかすぎない)

『共同幻想論』←ちゃんと読んでみたい。

 

じゃあ、占いじゃなければ、何があるか?

たとえば「日本人はスゴイ」とか思いたかったりしますよね。「日本人は○○だからダメだ」というのもある意味「特別視」で、こじらせただけにすぎなかったりしますねw

私もずっと、これは「日本人の特徴」と思っていたものがいくつかあるのですが、たとえば「村社会」「閉鎖的」とか「目立つことを嫌う」とか何でもいいんですけど。

 

実は「極東アジア人(儒教色が濃い)」だとか「農耕民族(温帯地域に住む人たち全般)」だとか「資本主義社会」だとか、共通項はそれぞれ様々だったりするけれど、日本人に限ったことではないわけですな。

もちろん「村社会」という特徴一つとっても、日本の中でも田舎と都会ではその度合いは違うのと同様に、ヨーロッパと日本で完全に一致ってことはないだろうけれど

所属する社会の性質としては「農耕民族社会」で、それらの共通項はそこに住まう人間に影響を与えているのです。

 

そういう、複合的なものの見方をしていかないと、つまり「日本人はうんたら」言いたいなら、「日本との共通項」をいろんな側面から見ていかないと、独善化すること必至なわけですな。(過去のエントリーとか読むと私もそういうこと言ってるしw)

「同じ」ものを持った人に対しては、人間親近感を持ちますよね。

 

シンプルにいえば、「違い」を探すより「同じ」をさがすほうが平和的だなぁと思う、という話です。

「違い」を理解するって、言葉でいうのは簡単だけど、本当の意味で理解しているのかどうかは怪しいところがあったりします。

「違い」を見つけることは、「キライである」「ニガテである」理由づけ、言い訳になってしまう危険性すらあります…。

「あー、だからあいつ気に食わないと思ってたんだよな!!」みたいなね。

それは占いによるカテゴライズだけじゃなくて、出身地とか職業とか人種とか思想とか…ラベリングできるものなら何でも。

 

そうじゃなくて、「共通項」をさがす。「愛」だと思える部分を見つける。そしてそこに全力で共振する。

みんながそうできたら、平和な世の中になるんじゃないのかなー。

とはいえ、私も大きな視点では「住み分け」すりゃいーじゃん!とか思ってますけどw

もう外の世界を知ってしまったら、そうもいかないんですよね。

ダブルスタンダードって言われたらそれまでですが、少なくとも個人レベルでは「共通項」さがしをしていきたいです。