どうしても欲しかったものがあったとして、だけど「執着」を手放した後、ともすると忘れた頃に、いとも簡単にそれが手に入ってしまう…
なんてことが「願望実現」とかそういう界隈で囁かれているのを耳にしたことがある。
で、忘れた頃の話だから当の本人も忘れているわけで、はじめから叶えようと意識していなくても、そういうことはまぁよくあることではあるのかも。
どうにかして叶えたい、忘れた頃でいいから叶えたいというのであれば、時間という概念の中で生きている身として、時間に解決させるという方法は自分自身を納得させやすい。
つまりは、納得させるに値うる「時間」を費やすこと。
脳みそがさも「自然」に、願いが叶う方へと誘う…
まぁそんな仕組みらしいのだけど。
ところで、本当に私たちはその願望を「意図している」のだろうか?
自発的に、意識的に、選んでいるのだろうか?
「意図させられている」ということはないだろうか?
例えば。
私は数年前、とある場所のガイドブックを購入していました。
行く予定もなく、特に興味もなかったのに(ざっくりとそのエリアに興味はあったけどピンポイントにその国に行く気はなかった)、なぜ購入したのかわかりません。
その後しばらくは本棚に並べておきましたが、メルカリで手放した半年後にその場所に行くことになりました。
不思議なのは、手放してから数ヶ月後に行くことが決まったこと。
手元から離れたことでその価値に気づいた…とかいうものなら、直後に何かしら感じるはずなんですよね。
旅が決まった時には、不思議と行きたい理由が明確になっていて、最新のガイドブックも購入したのです。
ここで初めて自分が「意志」と「理由」を持ったと感じているわけですけど…実際はどうなのか?
数年前から、潜在意識のどこかで「あの場所に行きたい」というのが先行していて、ガイドブックを買ったのだけど、顕在意識はいきなりパッと出の願望に納得できなかったのではないか?
だから、それっぽい理由を作り上げる必要があって、それに「時間」が必要だったのでは?
最初にガイドブックを手にした時、「そこに行く理由」を見つけられれば潜在意識的には一番良かったのだろうけど、それが成功しなかった。
だから、じわじわと、時にサブリミナル的なこともして攻めてたんだろうなぁと思うw
そしてとうとう、顕在意識が「納得できる理由」を作り上げてくれて、「現実的な行動」が伴ったという。。
顕在意識が納得できる理由というのは個人差があって、ある人にとっては妥当でも、ある人にとっては「行動」を起こすまでもなかったりするので、その辺りは潜在意識の働きぶりにかかってくるんじゃないかと思うのだけど。
つまり…なんかよくわからないけど手にとってしまったものって、多かれ少なかれ潜在意識からの声なんだろう。
で、それが「自覚していない本当の願い」とかいうものである可能性も高い。
ただ、テレビなどのメディアや社会からのいわゆる「洗脳」的なものの影響も考えられるので、普段からどれだけ自分が自分らしいと感じる生活をしているかにもかかっているような気もします。
だから、いつも自分の周りにあるものや目にするもの、耳に入れるもの、考えることが大事っていうのはうなづける。(気分良く、ってそういうことなんだろう)
自分が注目している、自分の見える範囲のもの(物理的な意味だけじゃなく、情報とかも)しか「引き寄せ」られない、通り過ぎていってしまう、というのは本当だから。
心理的盲点というものは侮れない。
ちなみに、「自覚していない本当の願い」だから、顕在意識がそれらしい理由を持ってきたとしても、「叶ったぞ!やったー!」という感じがしなかったりすることもあって
感情がフルに動くとは限らない。感動するとは限らないのですよねw
でも、サプライズ感があって私は好きだな。予測ができない楽しさはワクワクする。
そんな中、びっくりするほどシンクロニシティとセレンディピティにあふれた体験となるのは、ほかならぬ自分の一部というか大部分(潜在意識、氷山の水に隠れた部分)が望んだ結果だからなのだ。
私がポンコツだからなのか、それが「納得させるために作り上げた理由」とは違うところあると、気づくのはいつもそのあとなのだなw
まさに、「やってみないとわからない」ってなわけで…。